毎日考えた仕組みや考え方、実際に手を動かして仕事にしたことを、ひとつずつ書きとめていく。新しいものほど上に、古いものほど下へ、記録は地層のように積み重なっていく。その変化を追いながら、AIがもたらした人間の進化の余白を探していく。

No.012

先に、一点を決める

情報は、もう共有物になった。事実を集めるだけなら誰にでもできるし、AIも同じものを持っている。だから、たくさん調べること自体は、もう差にならない。差が出るのは、その事実をどう畳んで、何を真ん中に置くか。プロジェクトのいちばん最初に、その一点を決めておく。それが、いちばん効く仕事だと思う。

事実より、何を一点に据えるか

ある案件を始めるとき、事実のほとんどは、もう机の上に出ている。打ち合わせの記録も、資料も、だいたい出尽くしている。そこは、自分とAIとで大きな差はない。差がつくのは、その同じ事実を、どう一点にまとめるかのほうだ。この案件が、根っこでは何なのか。ずらしてはいけない一本の軸を、先に決める。背骨、と呼んでもいい。背骨は、事実から自動的に出てくるものではない。何を大事にするかという、賭けに近い決めごとだ。そして一度決めたら、あとはすべてそこに照らす。この判断は背骨に合っているか、と。

速いほど、背骨がいる

作るのが速くなると、先に軸を決めるより、まず手を動かして直せばいい、と思いたくなる。でも、実際は逆だと感じる。速く、いくつも出せるようになるほど、真ん中がないと、出てきたものはばらけていく。それぞれは悪くないのに、全体としては、どこかで見た平均へ散っていく。たくさんあるのに、一つになっていない。先に背骨を決めておくと、量産しても、全部を同じ一点に照らせる。だから、速く出したものが、ばらばらの山ではなく、一つのものとして積み上がる。速さは、背骨をいらなくするのではなく、いっそう必要にする。速く作れるほど、何を中心に作るのかを、早く決めておいたほうがいい。

先に決めた一点は、動きを縛るためのものではない。むしろ、自分を見失わずに速く進むための、帰る場所になる。ここだけは動かさない、と早めに決めてしまえば、あとは軽く、速く、大胆に試せる。戻る先があるからだ。事実が共有物になり、作ることが安くなるほど、希少で決定的なのは、真ん中に何を据えるかを選ぶことのほうになる。そしてその一点は、たぶん、独自性と本質がいちばん濃く重なる場所でもある。

No.011

違和感が、いちばん頼りになる

AIによって、平均が引き上げられていく。誰でも、そこそこ整った、それらしいものを出せるようになった。全体の水準が上がるのは、良いことだ。ただ、みんなの出発点が同じ高さになると、「そこそこ良い」だけでは、もう差にならない。そんな中で、ものを自分のものにし、芯へ近づけていくのは、たいてい小さな違和感のほうだ。「なんか違う」という、うまく説明できない引っかかり。

平均が上がるほど、違和感が独自性になる

AIが底上げしてくれるぶん、放っておくと、出てくるものは平均へ寄っていく。正しくて、整っていて、どこかで見たような形。悪くはないのに、その人らしさは薄い。そこから抜け出すきっかけは、たいてい「これは違う」という違和感だ。みんなが滑らかな答えを受け入れるところで、ひとりだけ引っかかる。その引っかかりは、自分のこれまでの見方が、そっと漏れ出している場所でもある。理由は言えないし、均してしまえば消える。けれど、その均さなかった一点にこそ、独自性は宿る。平均をなぞるのではなく、違和感のほうへ寄っていくことでしか、自分の形は出てこない。

違和感をたどると、本質に近づく

違和感は、ただ人と違うためのものではない。芯のほうを指してくれる。そこそこ良い答えができたのに、まだ何かが惜しい。そういうとき、ずれているのは表面ではなく、その手前の前提や枠のほうであることが多い。違和感を頼りに、表面の下へ、もう一段おりていく。「みんなこう言っている」という当たり前にも、小さく引っかかってみる。そうやって滑らかな平均を突き抜けていくと、そのプロジェクトが本当は何なのか、という核に、少しずつ近づいていく。ひとつ「なんか違う」を潰さずに拾うたびに、中心へ一歩寄る。

平均が上がるほど、そこそこ整った答えを、そのまま受け取りたくなる。もう出来上がって見えるからだ。けれど、その小さな違和感こそが、ものを自分のものにし、同時に本質へ引き寄せる糸になる。違和感は、自分がこれまで見て、良いと思ってきたものの積み重ねから出てくる。だから、理由が言えなくても、すぐに均さず、そのほうへ進んでみる。誰もがそこそこ良いものを出せる時代に、説明のつかない引っかかりだけが、それを自分のものにし、芯へ近づけてくれる。

No.010

積み上がる仕事か、使い切る仕事か

作るのが速く安くなって、量そのものはもう差にならなくなってきた。同じくらいの量なら、誰でも出せる。だとすると、効いてくるのは別のところだ。作ったものが、次の仕事の材料として積み上がるのか。それとも、一回ごとに使い切って、またゼロから始めるのか。

複利で積むか、その場で使い切るか

仕事には、大きく二つの型がある。ひとつは、作ったものが資産として残り、次に作るときのコストを下げていく型だ。過去の蓄積が効いて、後になるほど楽に、強くなる。複利で積む仕事といっていい。もうひとつは、一件ごとにリセットされて、前回の学びが次に乗らない型。売上は立っても、手元には何も積み上がらない。その場で使い切る仕事だ。量が安く出せる時代ほど、この差は開く。たくさん作れるのに積み上がらないと、山ほど手を動かしているのに、いつまでも身軽にならないという奇妙なことが起きる。

どちらが良い、ではない

ただし、複利で積むほうが常に正しいわけではない。積み上げは、環境が安定しているときほど効く。前提が変わらないから、過去の資産がそのまま次に活きる。逆に、前提が激しく動く環境では、積み上げた資産のほうが足かせになることがある。昔の正解を抱えているぶん、身動きが取りにくい。その場で使い切る型は、過去を持たないぶん、軽やかに乗り換えられる。だから問いは「積むべきか」ではなく、「いまの環境は、積むほうが効くのか、身軽なほうが効くのか」になる。自分がいまどちらの賭けをしているのかを、自覚できているかどうかが大きい。

面白いのは、いまのAIの使い方しだいで、積み上げのコストがぐっと下がったことだ。出したものを取り込んで、次のための材料に変えてくれる。これまで複利で積むのは、よほど意識して整理し続けないと難しかった。それが、少しずつ手の届くものになってきている。毎日ひとつ書いて積んでいくのも、たぶんその実験のひとつだ。積み上がるほうに賭けられる条件が、前より整いはじめている。

No.009

失敗が安くなると、こわさは別の場所へ移る

失敗が、ずいぶん安くなった。作り直すのに以前ほど時間はかからないし、一度出したものも、あとから直せる。出してみて、反応を見て、変える。その往復ができるようになった。だから、間違えることそのものは、前ほど怖くなくなった。ただ、こわさが消えたわけではない。行き場を変えただけだと思う。

往復できるものは、もう怖くない

かつて、こわさの多くは「後戻りできない」ことに宿っていた。作るのに時間がかかるから、やり直しが重い。一度世に出したら、簡単には引っ込められない。だから、作る前も出す前も、どこかで身構えていた。いまは、その多くが往復可能になった。作り直しは軽いし、公開したあとも直し続けられる。何度でも行き来できるものは、もうそれほど怖くない。こわさは、往復のきくところからは、静かに退いていく。

こわさは、内側へ引っ越した

では、どこへ行ったのか。往復できないものの側だ。出力はいくらでも直せる。けれど、「自分は本当に何を良いと思っているのか」という視点や基準は、AIが渡してくれるものではないし、往復して詰めるのも難しい。手を動かす部分が誰にでもできるようになるほど、最後に残って露わになるのは、その人が何かをちゃんと良いと思えているか、それとも何も持っていないか、のほうだ。もうひとつは方向だ。個々の出力は往復できても、どちらを向くかを間違えれば、安いやり直しで速く迷子になるだけになる。こわさは、「うまく作れるか、出せるか」という手元から、「自分に見るべきものがあるか、どこへ賭けるか」という内側へ引っ越した。

これは、悪い話ではないと思う。外向きで一回きりの恐れが、内向きで続いていく恐れに変わったということは、こわがるに値する問いのほうが、本質に近づいたということでもある。うまく作れるかにおびえるより、自分は何を良いと思うのかにおびえるほうが、たぶん健全だ。恐れの引っ越し先を見れば、いま何が本当に問われているのかがわかる。

No.008

ロードマップは、引いてから進むものではない

ロードマップは、先に線を引いて、あとはそれに従うもの。多くの場合、そう思われている。けれど、そうやって引いたロードマップは、たいてい途中で古くなる。現実は動き続けているのに、地図だけが最初の一枚で止まってしまう。

一人のまとめる力に、依存しなくなった

これまでロードマップは、誰か一人がぜんぶを見渡して、頭の中で整理し、一枚にまとめるものだった。だから全体が、その人の要約する力に縛られていた。しかも、一度きれいにまとめてしまうと、そこで固定される。変わったのは、この「一人のまとめる力」に頼らなくてよくなったことだ。いまのAIの使い方しだいで、ロードマップは、出てきたものに合わせて何度でも組み替えられる、変化可能なものになった。誰かが完成させて配るものではなく、動きながら書き換わり続けるものになりつつある。

アウトプットの連続で、在り続けること

難しいのは、ロードマップを「アウトプットの連続」のまま保つことだ。人間はどうしても、途中で動きを止めて分類したくなる。整理して、カテゴリーに分けて、一枚の完成図にしたくなる。その瞬間、ロードマップは進むための道ではなく、ただの棚卸しになる。生きた状態を保ち続けるのは、人間ひとりだと骨が折れる。そこを支えてくれるのがAIなのだと思う。出したものを次々に取り込んで、道のほうを描き直し続けてくれる。

そう考えると、ロードマップは、人間とAIが友人のように、いっしょに未来へ進もうとするときの、いい道具になる。ただし条件がある。人間の側が、変数であり続けることだ。次に何を作るか、どちらへ行きたいかという揺らぎを出し続けるかぎり、地図は生きたまま更新されていく。決められた道をなぞるためではなく、道を一緒に見つけるために、ロードマップはある。

No.007

越境が、普通になる

最近、一週間のうちに触れているものがばらばらだ。Webの画面もあれば、小さなアプリもあり、立体物やデータの整理まである。少し前なら、それぞれ別の職種の仕事だった。気づけば「自分は○○の人」という線が、だんだん薄くなっている。

分かれていったものが、また戻ってくる

もともとは、ひとりの手の中にあった仕事が多い。たとえばコーディングは、昔はデザイナーの仕事の一部だった。それが、専門性が深まるにつれて独立した職種になり、分かれていった。分業は、深さを得るための自然な流れだ。ただ、いまのAIの使い方しだいで、一度手放したものが、また手元に戻ってくる。デザインする人が、ふたたびコードも書ける。分かれていった仕事が、ひとりの中で合流しはじめている。

価値は、領域と領域のあいだに移る

こうなると、ひとつの分野をどれだけ深く掘れるかだけが強みではなくなる。むしろ、離れた領域どうしをつなげられることのほうに、価値が寄っていく。Webの考え方を立体物に持ち込む、データの見方を画面の設計に効かせる。別々だったものを行き来できる人が、そのあいだに新しいものを見つける。深さと同じくらい、越えられることが効いてくる。

越境というと、知らない分野に踏み込む挑戦のように聞こえる。けれど実際は、もっと自然なことなのかもしれない。分かれる前の、ひとりで全部を見ていた状態に、道具の力で戻っていくだけ。専門に切り分けられていた仕事が、また一人の手のなかでつながる。そういう時代の入り口に、いまいる気がする。

No.006

説得するより、形にして一緒に考える

頭の中のイメージを、短い時間でいったん形にできるようになった。それで何がいちばん変わったかというと、作れること自体よりも、説得しなくてよくなったことのほうだと思う。

目的を、形をきっかけに一緒に考える

これまでは、何かを進めるのに、まず目的を言葉で説明して、相手に納得してもらう必要があった。まだ存在しないものの良さを、言葉だけで信じてもらう。そこにいちばんエネルギーがかかっていた。形が先にあると、その順番が変わる。ざっくりでもイメージが目の前にあれば、相手はそれを見て、こうしたい、これは違う、と反応できる。こちらが決めた目的を説得するのではなく、形をきっかけに、目的のほうを一緒に考えられる。議論が、勝ち負けのある説得から、同じものを見ながらの相談に変わっていく。

形にすると、自分の考えも見えてくる

効くのは、相手に対してだけではない。頭の中のイメージは、思っているよりぼんやりしている。それを一度形にしてみると、自分でも「本当はこう考えていたのか」と分かることがある。曖昧なまま抱えていたものが、目の前に出た瞬間に輪郭を持つ。そして輪郭が見えると、どこをどう良くすればいいかも、ぐっと見つけやすくなる。形にするのは、完成させるためというより、考えるための材料をつくることに近い。

そう考えると、プロトタイプは成果物の下書きというより、良い議論のための道具なのだと思う。説明して守るためではなく、一緒に考えるために、先に形にしてみる。手早く形にできるようになったことの本当の価値は、たぶんそのあたりにある。

No.005

ひとりひとりが、作る仕組みを持つ

このところ、ひとつずつ手で作るのをやめて、作る仕組みのほうを作っている。入力をひとつ入れれば、出力が立ち上がる。そういう装置を組んでおけば、あとは同じ作業を繰り返さなくて済む。仕事の重心が、ものを作ることから、作り方のルールを設計することへ移っている。

仕組みづくりが、個人に降りてきた

作る仕組みを作る、という発想そのものは新しくない。工場の生産ラインも、会社の業務フローも、結局は「ひとつずつ作らないための仕組み」だ。ただ、これまでそれは業界や組織の単位で考えられてきた。個人は、その大きな仕組みの中の一工程を担う側だった。変わったのは、同じことが個人の手元でもできるようになったことだ。いまのAIの使い方しだいで、ひとりでも、自分専用の小さな作る仕組みをいくつも持てる。そして持てるだけでなく、たぶんこれからは持っていることのほうが前提になっていく。

上から流すのではなく、つなぎ合わせる

面白いのは、その仕組みの形が、これまでと変わってくることだ。組織の作る仕組みは、上から下へ流れていく。決めた手順を、下の工程がなぞる。けれど、個人がそれぞれ小さな仕組みを持つようになると、話はそうならない。上下に流すのではなく、横で仕組み同士がつながり合う。誰かの仕組みの出力が、別の誰かの仕組みの入力になる。固定されたラインではなく、その都度つなぎ替えられる、ゆるい網のような形だ。

だとすると、これからの議論は、ひとつの大きな仕組みを誰が持つか、ではなくなっていく気がする。個人それぞれの作る仕組みを、どう組み合わせるか。アメーバのように形を変えながらつながって、全体としての価値をどこまで大きくできるか。たぶん、そこに行き着く。手元で小さな仕組みを作りはじめることは、その最初の一歩になっている。

No.004

知識はそろう。違いは思想に残る

AIを使って仕事をするほど、ひとつ気になることがある。AIが賢くなるほど、同じ道具に知識を頼る会社どうしは、だんだん同じ考え方に寄っていくのではないか。知識でいくらでも武装できる時代に、差がつくのはたぶん知識のほうではない。

いまの活用は、知識に偏っている

いまのAIの活用のされ方は、知識を集めて取り出したり、キャラクターを設定したりすることに偏っている。知識をもとに、偏差値秀才のようにロジカルな答えを返してくる。それ自体は、たいてい間違っていない。ただ、まだ扱いきれていない領域がある。なぜその技術を考えたのか、失敗をどう捉え、どこから手をつけるのか。この部分は、人によっても会社によってもまるで違う。そして、いまの使われ方では、ここがすっぽり抜けている。思想のほうは、その都度プロンプトに書いたり参考資料を読ませたりして、一部だけをインストールしている状態にある。面白いのは、AIを作っている側にも、知識ではなく性格や価値観の部分を専門に受け持つ人がいて、しかも哲学の出身だったりすることだ。知識の手前にある部分は、誰かが意図して形づくらないと宿らない。

思想は、出力されたものの外側にもある

やっかいなのは、思想が、きれいに言葉にされたビジョンやミッションの中だけにはないことだ。むしろ、その背後にある理由や、周辺で交わされる判断、実際に手を動かして実践されていることのほうに、色濃く出る。だから、表に出した一文を読ませるだけでは足りない。普段の判断や、やってみてどうだったか、なぜそうしなかったのかまで含めて、まるごと渡せたとき初めて、その会社らしい答えが返ってくる。それをAIに読ませられる形で持っておくために、いまから蓄積をはじめること。これがこれからのAIに対して、人や会社の側が用意すべきアプローチなのだと思う。

そう考えると、毎日ひとつ書いて積んでいくこの場所も、ただの記録ではないのかもしれない。いつか自分の思想を渡すための地層を、いまから掘りはじめているのだと思えば、続ける理由になる。

No.003

つくるのではなく、引き出す

コンセプトを言葉に落とそうとしていると、別々の案件のはずなのに、結局いつも同じ形にたどり着く。良いものは新しく作ったものではなく、もともとそこにあったものを表に出しただけだ、という形だ。最初は偶然かと思っていたが、何度も繰り返すうちに、これは作業の進め方そのものなのだと思うようになった。

「つくる」より「表に出す」

組織の文化や、現場に積もった勘のようなもの。こういうものを、施策やマニュアルでゼロから作ろうとすると、たいてい空回りする。文化は、その集団がこれまで選んできたこと、避けてきたことの結果として、すでにそこにある。ただ、本人たちには見えていないだけだ。だから効くのは、新しく作ることよりも、もとからあった態度を引っ張り出して、見える形にすること。新しく見せたいものほど、ふたを開けてみると、すでにあった何かを表に出しているだけだったりする。何もないところに足すのではなく、埋もれているものを掘り出す。そう捉え直すと、無理に新奇さをひねり出さなくてよくなるし、たいていの企画はしっくりくる。引き出す対象がもともと豊かにある場所ほど、出てくるものも強い。

直感を、すでにある言葉に当てる

面白いのは、こうした直感を、ひとりで抱えたままにしなくてよくなったことだ。「たぶんこうだ」という曖昧な感覚を投げてみると、同じことをずっと前に別の言葉で考え抜いた人がいる、と返ってくる。自分の勘が、知らなかった誰かの理論の上にちゃんと乗っていたと分かると、その勘は急に人へ説明できるものに変わる。新しく思いついたつもりが、実は昔からある考えを、自分の現場で言い直していただけだったりする。裏づけが見つかると、迷いが減って、説明にも芯が通る。ここでも結局、何かを作っているのではなく、もとからあったものを表に出している。

ひとつ気になっているのは、表に出したものは、放っておくとまた閉じていくことだ。掘り出した文化も、言葉にした勘も、しばらくすると元の見えない状態に戻ろうとする。だとすれば、表出させるというのは一度きりの作業ではなく、開いた状態を保ち続けることなのかもしれない。毎日ひとつ書く、というのも、たぶんそれに近い。

No.002

直すのは、出力より枠のほうだった

AIに任せて、返ってきたものを直す。最近はこの繰り返しが作業の大半になっている。そうやって何度も手を入れているうちに気づくのは、いじっているのはたいてい表面の細部で、本当に直すべきはもっと奥にある、ということだ。言葉づかいではなく、誰の視点で書くか。色や形ではなく、何を基準に揃えるか。直すべきは、出てきたものそのものより、その手前にある「枠」のほうだ。

直しているのは、たいてい「枠」のほう

たとえば文章なら、言い回しを何度書き直しても違和感が残るのに、主語を「自分」から「読む人」に変えただけで、残りの文がすっと決まることがある。デザインでも、配色を何パターン試してもぴたりとこなかったものが、余白の取り方という基準をひとつ決めた途端にまとまる。動かしていたのは細部なのに、効いたのは枠のほうだった。そういう逆転がよく起きる。きれいに仕上がっているのに何かが惜しいときは、表面を磨くより、自分が立っている位置を疑ったほうが早い。
しかも、作る手間が軽くなるほど、この「枠を決める」ことの比重は増していく。これまで半日かけていた作業が数分で形になるなら、浮いた時間は手作業には戻らず、「そもそも何を、どんな前提でつくるのか」を考える時間に変わる。手が空くのは、楽になることではなく、判断する場面が増えることだ。だから、最初に枠を決める時間は惜しまないほうがいい。

枠を、説明できるところまで落とし込む

そもそも枠は、言葉にしにくい。アートディレクションのように、はっきりとは説明しきれない感覚で決まっている部分も大きいし、同じコンセプトを共有しているつもりでも、枠の取り方は人によって微妙に違う。これまでは、その枠を自分の中に十分に落とし込みきれないまま進めてしまうことも多かった。
そうではなく、いまは、その曖昧なものを少しずつ外に出し、返ってくるものとのズレを見ながら、説明できるところまで言葉にできるようになってきた。頭の中でぼんやりしていた基準が、やりとりを重ねるうちに輪郭を持つ。そこまで落とし込めれば、同じ枠を人にもAIにも渡せる。前に進んでいるのは、出来上がったものより、その基準の解像度のほうだ。

No.001

はじめに、目的と進め方

毎日、新しい仕組みや考え方を試し、実際に手を動かして仕事にしている。やれることは日ごとに増え、少し前には難しかったことも形にできるようになってきた。その変化の速さの背景には、大きな変数としてAIがある。
ただ、ここで主役にしたいのはAIそのものではなく、それを使って人が何を考え、何をつくれるようになったかのほうだ。日々の仕組み、考え方、手を動かした記録を、ひとつずつ書きとめていく。
進め方は単純で、その記録を毎日ひとつ、地層のように積み重ねていく。一回ぶんは短くても、一年分が積もれば変化の過程が見えてくる。一年後に全体を振り返り、AIがもたらした人間の進化の余白がどれだけ広がったのかを確かめる。それがこのブログの目的である。